artwork: Philippe Weisbecker

おんぶ、にらめっこ、正座。日本古来の文化に潜んでいた教育|山折哲雄さんインタビュー

なにげない日常のなかに、私たちの祖先が編みだした、日本ならではの教育のヒントがたくさん隠れていました。広い視点で日本人の精神を見つめてきた宗教学者の山折哲雄さんが、いまと昔の日本の教育をくらべて思うこと。なにかを学ぶよりも、もっと大切で根本的なこととは。
– いま若い母親たちが、ハンモックのようなもので子どもを前にぶら提げて、だっこしながら歩いていますね。それを「カンガルー型」子育てと私は呼んでいますが、このスタイルが定着したのは戦後のことで、アメリカから入ってきたものではないでしょうか。この「カンガルー型」でいくと、子どもには母親しか視界に入らず、母親も目の前の子どもばかり見ている。対面密着型の親子関係を表しているといえます。一方、日本の伝統的な子どもの抱きかたというと、おんぶです。おんぶされた赤ん坊は、背負っているお母さんの首筋を見ています。働いているお母さんの乱れ髪に、汗が浮かんでいるのが見える。飽きると周囲を見まわす。空には雲が浮かび、鳥が飛んでいる。左右を見れば、商店街にお店が連なる。いろんな人々が行き交う。母親もまた、子どもを感じながら社会を見ている。おんぶ型子育てでは、親子は背中をとおして密着すると同時に、広い世間を見ることができている。親子の密着やふれあいは、子育てにおいて非常に大切なものですが、密着のしかたによって、親も子どもも世間をみる視野の広さに大きな違いが生まれてきます。些細なことではありますが、これが現代の親子関係において重大な問題を引き起こしているように、私には思えるのです。
戦後、核家族になって、親子が狭い空間で向きあうことによる弊害が出てきました。「キレる」子どもの増加や、モンスターペアレンツといわれる、自分の子どもしか見えていない親たちの出現。そんな視点で見てみると、日本の伝統的なおんぶ型子育ては、親子の視野を開く理想的な子育て方法といえるのではないでしょうか。抱きかたを変えるだけという非常に単純なものですが、試してみる価値はありそうです。
また視野が狭くなっているのは、どうやら親子だけではないようです。学校では教師が「他人を簡単に信用してはいけません」と子どもたちにいわなければならないような状況になっている。誘拐や殺人事件が多発し、その被害が子どもにおよぶような社会ですから、しかたがないことなのかもしれません。しかしこれは、教育の自殺行為ではありませんか。教育の原点とは、人を信じることであり、そこからすべてが始まるはずです。それができなかったら、そもそも子どもを育てるなんてできない。人を信用しなさい、信頼しなさいということを容易に言えない社会というのは、悲惨だと思いませんか。でも現実には、ちょっと油断すると、騙されたり被害に遭ったりするわけです。それではどうしたらいいか。ここでも、私たちは昔の日本の風景のなかにヒントを探ることができます。
我々が子どものころには、「にらめっこ遊び」というのがありました。笑ったほうが負けっていうね。なぜこの遊びが生まれたのか、その起源を探ったのが柳田國男という民俗学者です。柳田さんによると、昔の村共同体に、よその村の子どもがやってきた時、子どもたちの中心人物、つまりガキ大将がすっとんでいって、「待て」と両手を広げて通せんぼし、グッと睨みつける。それで相手がどんな人間なのかを見極めるわけです。悪いやつじゃないと思えば受け入れる。笑いが起これば和解成立です。見知らぬ人に対するときに、最初にやるべきことは「睨む」こと。それは信用することでも、疑うことでもなく、その前の段階といっていい。相手が何者か、どんな人間なのかを見極める段階です。初めて会った人と目を合わせるのは、実際勇気がいることです。睨みあった結果、見るほうと見られるほうが対決する。いわば精神の格闘技です。本来の日本の教育では、そういう人間の力量や態度を鍛える教育がおこなわれていた。しかし、いつしかガキ大将もいなくなり、子どもの世界の掟も失われてしまいました。それは大人の世界でも同じこと。いまや政治の世界でも、精神の格闘技なしの外交交渉、政治折衝なんかがおこなわれているようです。凛として睨む、泰然と相手を睨む。この睨むことをしなくなった日本人は、自らの信念で決断する力をも失いつつあるのかもしれません。
「睨む」と同じく、「姿勢を正す」という機会も、現代の子どもたちには少なくなっているようです。最近、小学校で話をすることがときどきあるのですが、本来こういう授業は、話の内容よりも姿勢を正して「きちんと人の話を聞く」ということを教える絶好のチャンスです。それなのに、先生は子どもたちを集めて、まず体育座りをさせるわけです。体育座りは運動するときの姿勢であって、人の話を聞くときの作法ではありません。ふつうに考えたら相手にとても失礼な態度ですし、大人の世界ではやりませんよね。でもそんなことに疑問を抱く先生は、どうやらいないようです。そんなとき、私ははじめに「正座をするか、しんどかったらあぐらをかきなさい」と言います。そうすると50分程度の授業であれば、小学生でもきちっと座って聞くことができますよ。人の言葉というのは、背筋をすっと伸ばし、呼吸を整えてきくと、すっと頭に入ってくるものです。授業とは、話し手と聞き手の真剣勝負の場。きちんと理解しあうには正しい姿勢で臨むことが大切です。これと同じことを、大学の講義でもしたことがあります。はじめに筆記用具を全部しまわせます。ところが、なんでもかんでも書き写す習慣が身についてしまった学生は、なかなかしまわない。「心に刻まれたことは自然と覚える。もしなにも頭に残らなければなにも書かなくていい」と言うと、やっとみんなしまうことに納得する。それから姿勢を正させ、しっかり腹から深呼吸をさせる。吸う、吐く、止める、のリズムがきちんとできてくると、自然と姿勢もよくなり、集中できるようになってきます。そして最後に「目をつぶれ」と言うのです。でもこれがまた、みんなつぶらない(笑)。薄目を開けてまわりを見ています。黙想という習慣がないんですね。それでも全員がしっかり目をつぶるまで待ちます。それだけで開始から30分くらいかかるかな。やがてざわざわしていた教室がしーんとなる。そこでやっと本筋に入る。
「いま、ひとりになっただろう。諸君はものを考えるスタートラインに立っているんだよ」とね。
かつて日本の文化のなかで、「ひとり」というのは、非常に重い意味をもっていました。青年が大人になるには、まずひとりになって物事を考えることから出発する。そうして初めて自立できる。それなのに、あるとき女子大生たちに訊いてみたら、みんなひとりになるのは嫌だ、不安だと言う。現代の若者にとって、「ひとり」はネガティブな状態になってしまったようです。しかし「ひとり」になることは、学ぶこと、考えることのスタート地点。個人の倫理観や宗教観を形成する基盤でもあります。「ひとり」をとおして、自分という揺るぎないよりどころができて初めて、他者ときちんと向き合うこともできるのです。日本人が大切にしてきたチームプレーも、きちっとした個人プレーができてこそ成り立つもの。サッカーなんか見ているとわかりやすいですね。本当はこれを、小学生のときから教えるべきなんです。それが戦後の自由教育では、そういうことをいっさい排除してしまった。そのひずみがいま、いろいろなところで出はじめていると私は思っています。
睨む、姿勢を正す、ひとりになる。これらはすべてつながっており、人間の基礎力となるものです。日本の伝統的な教育では、学ばせる前に学ぶ態度が、考えさせる前に考える態度が、しっかりと教えられていました。その根本的な部分が抜け落ちたまま、新たな知識ばかりをつめこ込むような教育は危険きわまりない。現代の価値観をすべて否定するわけではありませんが、いま一度、日本古来の人を育てる姿勢を見直すことには、大きな意味があるのではないでしょうか。-
山折哲雄 やまおり・てつお
宗教学者。国立歴史民俗博物館教授、京都造形芸術大学大学院長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。2004年より『高校生のための日本の次世代リーダー養成塾』の講師も務める。著書に『さまよえる日本宗教』『仏教とは何か』『信ずる宗教、感ずる宗教』『いま、こころを育むとは』など多数。
※このインタビューは mammoth No.25「JAPON」特集に掲載されています。Text: Toyo Kin