からだを動かしながら楽しむこと、その遊び自体が「ダンス」なんだ|近藤良平さんインタビュー

「ダンスってもっと自由な存在でいい」と言うのは、学生服のダンス集団「コンドルズ」主宰の近藤良平さん。近藤さんのワークショップや、盆踊りをつくってみんなで踊る「池袋にゅ〜盆踊り」などで、からだを動かすことのおもしろさに開眼する人が続出。体験すると目覚める「からだ遊び=ダンス」の魅力について訊きました。
ダンスって身近なようで身近じゃない。それはどうしてかと考えると、「ダンスをどう捉えるか」が人によって違うからというのが大きいかもしれない。なにをダンスと捉えるかという、ダンスの定義って浮遊している。ダンスにもいろいろな種類があって、カッコつけるためのダンス、自分を磨きに磨いたダンス、笑顔をつくるダンス、リズムに乗るダンス。ジャズダンス、ヒップホップ、日本舞踊などのジャンルがあって、そこを勉強することでダンスを理解するというのが、多くの人が思うダンスのありかた。だけど、僕の場合、からだで遊ぶことを総称してダンスと呼んでいる。日常の動きにもおもしろさを見出して、からだを動かしながら遊ぶことがダンスになる。
僕はワークショップを全国でやっているのだけど、とくにそういう場では、人と共有しながらからだを動かすことが大事。部屋にこもって筋トレをする動かしかたとはちょっと違う。ワークショップは、どうやってからだを動かしたら楽しくなるかを実験するような場なのだけど、「今日はアイドルのふりをやる」といって、マイクを持ったふりをして動いてみると、どんな年齢の人にやらせてもおもしろくて、20代でも70代でも、同じ空間と時間を共有できる。つまり、自分たちのからだをとおしてコミュニケーションすることで、簡単に年齢を超えてしまっている。そういう意味ではいろいろな人が混ざる、盆踊りのような踊りに似ているかもしれない。
南米で暮らしていた小学生のころ、ダンスといえば祝祭日にみんなで集まって踊るものだった。当時はからだを動かすことがおもしろくて、日常的に走りまわったり、逆立ちしてみたり。犬と一緒なんだよね。我慢しきれなくて、ぐるぐるまわっちゃうような状態が続いていた。
積極的に踊りを意識するようになったのは中学生のとき。マイケル・ジャクソンの時代で、プロモーションビデオがたくさん流れていて、そこでダンスっぽいものと出合った。その世界では、マイケル・ジャクソンだけじゃなくて、ジェイムス・ブラウンみたいな動きもあったし、シンディー・ローパーが叫んでいるのも、デュラン・デュランが演奏しているのもすべてがかっこよくて、「この動きを真似てみたい」という対象になった。僕の場合、誰に習うわけでもなく、プロモーションビデオが先生だった。録画したビデオテープを何回も擦りきれるくらいにスローモーションで再生しては、夜な夜な踊っていた。
でも、学校ではそんな素振りは見せなかった。いまはダンスをやっている人が多いけど、あのころは踊っている子なんて誰もいなかったから、「ダンス」なんていうと、「おまえバカじゃない?」みたいな雰囲気。中学のときはサッカー部にいたけど、もっと違うからだの動かしかたをしたくて、高校に入ると男子体操部をつくった。
初めて人前で踊ったのは高3のとき。新入生歓迎会で体操部の3人でやった少年隊の「仮面舞踏会」。そのとき、人前で踊ると急に違う目でみんなから見られるんだって知った。冷やかしもあるし、急にモテることもある。人前でやるのはおもしろいなぁとも思った。
大学に入ると、「ダンス」みたいなものが始まった。授業があったり、高校のダンス部で一緒だった女の子が入った大学のダンス部の公演を観にいったり、女子大の社交ダンスサークルに参加したり。女の子と踊るのがすごく嬉しかったという、最初は不純な動機だったよね(笑)。
大きな転機になったのが1989年に横浜で開催された「ヨコハマ・アート・ウェーブ」。ピナ・バウシュとか、ローザスというベルギーのカンパニーのような、いわゆるトップ・オブ・ヨーロッパのダンスにふれて、自分とは関係ない遠い世界のものだったダンスを身近な存在に感じた。そこで見たのは若い人が颯爽と踊っている姿ではなく、禿げ上がったおじさんが短パンをはいて、四つん這いになりながら動いている姿。「なんじゃこりゃー!」と思いながらも、そこに親しみを感じて、こういうことをやりたいと思ったんだ。
一般的に、小学3年生くらいまでは、ものすごく運動もしているし、音楽が流れると暴れるし、自然にリズムをとっている。それなのに、それ以上の年齢になると、ダンスが「身近なのに、身近じゃない存在」になってしまうのは、表現することに恥ずかしさが伴ってきてしまうからなのだろう。ダンスには日常の動きとは違う、恥ずかしさと直結する部分があるから。さらに中学生くらいになると、「机の上には座っちゃいけない」というような社会的にしちゃいけないことのルールがでてきて、そのなかに「人前で変な動きをするダンスをしちゃいけない」みたいなルールも項目として勝手に入ってくる。
からだを動かすことがひとつの表現だとしたら、たくさん絵を描けばそれが恥ずかしくなくなるのと同じように、からだを動かしつづければ恥ずかしくなくなるはずだけど、からだを動かすことを急に制限として感じてしまう時期がある。そしてそれをずっと引きずって戻れなくなっている大人たちを、僕はたくさん見てきている。
それはだいたいパターンが決まっていて、中学生くらいから始まった恥ずかしさの感情は、高校生になるとピークを迎える。それでも、成長すると自分の向かう方向、スペシャリティが決まってくるから、一度は恥ずかしさから開放されるんだけど、大学生になると「個」の部分が目覚めるから、踊りによって表現したり、コミュニケーションしたりするどころじゃなくなってくる。大学を卒業して就職をしたら一所懸命がんばらないといけないから、今度は踊る暇がなくなってしまって、もう戻れなくなってしまうんだろうね。
だけど20代も半ばを過ぎると、なんとなく喪失感が生まれて、30代になると人肌が恋しくなってくる。そうなると、それまで拒否しまくっていたダンス的なもの、人とのふれあいや、からだを動かすことの楽しさみたいなものにアクセスする人が増えてくる。
僕がやるワークショップのなかでは、ふたり一組でふれあってゴロゴロ転がったり、飛行機をやったり、サルサのリズムに合わせて歩いてみたり。多くの人はそれまでそうしたからだ遊びをしたことがないから、ワークショップに参加するとからだがびっくりするみたい。だから「こういうダンスはどこで学べるんですか?」とよく訊かれる。でも、それって、ダンスをどう捉えるかによるとしか言いようがない。トレーニングと呼ばれるものは、この動きを10回やりなさい、20回やりなさいと言うけど、そういうことではないのだから。それよりも自分のなかで、なにが「ダンス」なのかを探すしかない。
子どもでも大人でも、からだを動かして初めてわかることってたくさんある。いや、僕の場合、体を動かしてわかることしかやってないな(笑)。たとえば、ここに10人いるとして、「みんなでひとつの机の上に乗ってみよう」というようなことが楽しくてしかたない。からだの動かしかたはもちろん、「こんな大人数が乗れるかな?」「どうやったら乗れるかな?」ということをみんなで考えていく過程も含めてすべて楽しむ。歩きかたでいうと、5歩で行けるところを3歩で歩いて2歩下がるみたいなこと。目的地に最短距離で進もうとしたら、ただのまわり道でしかないことかもしれない。でも、結局はからだを動かすおもしろさというのはそういうところにある。
世の中的には、高い目標を設定してそれを成し遂げるための一直線の動きがすごく多いけど、それだけだとまわり道をしなくなってしまう。効率よく動くことばかりでなく、おもしろおかしくからだを動かすことで、ときどきはそれを緩めて、積極的に道草的な遊びを自分でつくりだしたほうがいい。そういうことが苦手で、恥ずかしいと感じている人は、歩くときにぜひ二段跳びをしてみてください。そうして、二段跳びってこんなに楽しいんだってからだで感じてみたほうがいい。
子どもはそういう遊びを見つける天才。親は子どもがおもしろがっていることに聞き耳をたてて、からだ遊びの経験を積み重ねていってあげたいよね。
近藤良平 振付家・ダンサー。学ラン姿でダンス、映像、コントなどを展開するダンス・カンパニー、コンドルズ主宰。NHK「サラリーマンNEO」、「からだであそぼ」などに振付出演。同「てっぱん」オープニングの振付も担当。第四回朝日舞台芸術賞寺山修司賞受賞。いくつかの大学で非常勤講師としてダンスの指導にあたる。収容人数5万人の味の素スタジアムで開催された東京スポーツ国体2013開会式式典演技総演出担当。南米育ち。愛犬家。www.condors.jp