Photography: Mie Morimoto

杉山開知さんインタビュー|本質的な時間を手に入れる 新しくて原始的な地球暦

時間や日付を気にしているのは、人間だけ? ある日、そんな素朴な疑問をもってから、杉山開知さんの壮大な暦づくりは始まりました。時間の考えかたが変わると、人間の意識、社会全体の文化や風習の土台が変わってしまう。時間ってなに? 暦って? 常識だと思っていたことを根底から揺さぶる、「地球暦※」の発案者、杉山開知さんのお話です。
————————————–
時間って、みんな当たり前に使っているのに、本質的には知らない。何月何日かを知ってるのに「何月何日っていったいなに?」っていうと、いきなり、わからなくなってしまう。それは、野の草花とは違って、自然にあるものではないからです。全生態系生物のなかでそういう独自のはかりを使っているのは、我々、人だけ。この世の中では、年月日時分秒でものすごくきっちり社会システムをコントロールするためのツールとして、時間のはかりが使われている。つまり、個人と社会とをつないでいる共通認識だっていうことなんですね。生まれたときからそうだから、それが当然だと思って疑問にも感じていないけれど、いま与えられているこの物差しは、極めて人工的、すごく意図的だということです。
カレンダーという名称は、メソポタミアの古代カルデア人から来ています。彼らが最初に時のはかりのコンセプトをつくりました。頭上には球体の天があり、そこに星がはりついていて、あたかも右まわりに規則正しく動くという見かた。過去から未来へ、時間は直線的に続くという考えかた。こうした天球の概念がこれまでの暦であり、この基本コンセプトは現在まで続いています。直線的にはかるってことは、数理的に秩序をもって計測するという部分では非常に理解しやすいシステムだけど、時間というのは本来そういうものではないんです。
人間が本質的に自分のいる位置を確かめるということに対しては、もう少し違う考えがあってもいいと思う。僕らは往々にして「今日なにすればいいんだっけ?」とか、もうちょっと大きくなって「僕は人生でなにをしたらいいんだっけ?」っていうことを思いますよね。ひとりでも少なからず思っていて、集合意識のなかではかなりたくさんの人が道を探してると思う。これが自分の道かなってチョイスしながらなにかを模索してるけど、そういうことをしてるのは、まさしく人間だけ。だから、生物とか動物として自分の存在がいまどこにいるのかっていうのをわかってないということは、ちょっとした問題とまではいかないけれども、そこには感じるべき大きなヒントがあるんじゃないかと思う。
人は、朝起きてから夜寝るまでの間に、少なくとも3,000以上の選択をしていると言われています。食べるものも着るものも選んで、その選択の集合によって自分の道をつくっている。だけど、どんな時間を過ごしたいかって暦を選んだりはしていません。僕は、時間も自分の過ごしたいものに合わせて選べればいいと考えています。
日本はのべ9回、暦をバージョンアップしました。ずっと観察してたら、天文学はだんだん進化していきます。それと同じように新しいことがわかったら、暦も進化するわけです。暦は科学ですか、それとも思想・哲学ですかってよく質問されるんですが、答えはその両方なんです。天文学っていう科学的な天測が進化すると、同時にそれを感じるこっちの心や考えかたも進化していく。人類の意識が進化したら、はかりも進化していくのは自然なことだと思う。社会が変わったら、時計も変わる。日本の場合は最終的にかなり極まった暦の知的体形をもっていたんだけれども、歴史的ないきさつのなかで、140年前にいまの西暦を使うにいたっています。140年前の天体観測と現在では、どれだけの開きがあると思いますか?
いまや、太陽系に生きていることじたいが当たり前な事実で、誰しも宇宙人的な感覚をもって、今日も地球はまわっていると理解しています。知覚範囲が、銀河まで広がっている。ということは、僕らが把握できる世界が広がっているわけです。暦というものは人の意識がつくっていて、世界観がこの世界をつくっているから、世界観が変われば、常識はあっけなく変わっていく。暦には本当は必ず出所があって、作者がいて、ガイドがある、そう、人の心がつくりだしている、未来を照らす明かりのようなものです。肝心なところはロイヤリティフリーになっているけれども、カレンダーというのは誰かの世界観なんです。
暦そのものは、もしかしたら乗り物的なものなのかもしれない。時間って意識だから、その意識がノッてるものと考えることができます。僕らは暦や時計を使うけど、本質的に、時そのものは人の共通認識としての意識がつくりだしています。で、その意識の質と量と密度は、「とき・ところ」によってまったく変わってくる。だからそれが体感としても違うし、ノリが違うということなのです。オリンピック選手の競技時間の5分と、お茶の間でそれを見ている人の5分では、同じ5分でもあきらかに違いますよね。だから、本体は自分の体感側にあるんだと思う。伸び縮みもするし、ムラもある。そこが、自然の正体だから。
もともと時というのは、個人で使うものではありません。自然に生きてる人っていうのは、朝起きて、においを嗅いで、ああ今日こうだなって感じた瞬間に、もういま・ここ・OK!だと、はっきりわかっている。それは、本質的にどこに時計があるかって話なんです。時計というのは、本来は身体のなかに備わっている。それは解剖学的には松果体とか脳幹、脳梁のあたりにある「胎内生体時計」とかいうのかもしれませんが、おそらくとてつもなく小さい「時間の受信機(レシーバー)」じゃないかなと僕は思っています。機械の時計のようにシステマチックなものではなく、生態系生物が共通してもっているのだと考えています。そう考えると、植物がいっせいに花を咲かせたり、鳥が同じ方角に旅をしたりということをマクロ的に見ると、太陽という指揮者のタクトに合わせ、惑星という舞台の上で地球が奏でる主旋律に全体がダンスしているようすが見えてきます。そして、いまはいつか、ここはどこか。自分自身は小さいけれど、この地球にタイミングを合わせることさえできれば、大きな結果を得られることを知っている。だから完璧なタイミングに合わせて、それぞれが自分の身体を、そこに合わせて進化させていく。で、僕たち人そのものは、紙のカレンダーや機械じかけの時計を使わなくても、すでに完結しているということが前提です。
社会システムをコントロールするために支配者が使ってきたツールとしての暦は、もう古い。言ってしまえばナンセンスだと思う。要は社会経済や企業体を維持するためにやっていることであって、もう僕らは満たされているから、この物質的な世界を豊かにするっていうことにはゴールは見出せない。生態系生物の調和を考えたら、ピークを超えたら、それをいかにしてプラスマイナスゼロにしていくかっていうことのほうが重要でしょう。美しく、気持ちよく、僕たちが豊かにのんびり暮らしていくにはどうすればいいですか?って地球の自然環境に問いかけながら、徐々にテンションを下げながら、遊びを増やしていくべきだと思う。人がつくっていくものは変わりつづける。そして人は生きかたを変えつづけている。そういう一端で暦をチョイスすることもできると思う。自分の生きかたに合わせて自由につくれる暦っていうのが、いま必要なのではないでしょうか。それで僕は、地球暦というものをつくりました。時間そのものは、生まれながらに与えられている「命の限り」です。その白紙のキャンバスに向かって、自分の物語をいかにして描くか。そこが、生きるっていうことの本質である「鍵」だと思う。だから僕は地球暦を、ほとんど白紙に近い状態で出すことを心がけています。必要のないことはいっさい省き、これだけあればいいという、その原型的なものをつくりたくて、そこに挑戦しています。そのベースが理解さえできれば、その上にいろいろな時間をのせて自分の人生を自由につくりだし、大宇宙、大銀河、そして太陽系と共生して過ごすことができるんじゃないかな。
————————————–
杉山開知 すぎやま・かいち
地球暦考案者。静岡県生まれ。音楽の専門学校卒業後、2002年より家業を引き継ぎ、静岡にて半農半暦の生活をしている。2004年から本格的に暦をつくりはじめ、古代の暦の伝承と天体の関係を学ぶ。その過程で暦の原型は円盤型の分度器であることに気づき、2007年、太陽系を縮尺した時空間地図を「地球暦」と名づける。現在は制作した暦を縁ある方に「贈りもの」として配布している。
※ 地球暦 太陽系時空間地図。宇宙の太陽系の惑星である「地球」にいる自分が、いまがいつで、どこにいるのかがわかる暦で、民族や国を超え、地球人であれば誰もが理解でき、共通して使えるのが特徴。www.heliostera.com