mammoth Interview: 岩谷圭介さん|まずは「手」を動かして実現した宇宙開発

「発明家になりたい」。小さなころから身のまわりのものを分解するのが大好きな岩谷少年。なんでも自分の「手」でつくり出してしまう少年は、発明家になる夢を持ち続け、見事にその「手」で自分の未来を切り開き、世界一小さな宇宙開発である「風船宇宙撮影」を成し遂げます。そんな岩谷さんにとって「手」とはどんな存在なのでしょうか。
 
分解ばかりして親を泣かせた幼年時代

手の記憶ということで覚えているのは、分解です。小さなころは、ドライバー1本を手に持ってなんでも分解するのが好きな子どもでした。分解するものはなんでもよくて、ゲームのコントローラーとかゲームボーイとか、身のまわりにあるものはすべて分解していましたね。もちろん1回分解したら組み立て直すんですが、なぜか1本か2本、ネジが余ってしまう。それで動かなくなってしまったものもあったと思います。幼稚園生のころだったと思うんですが、父親が大事にしていたカセットテープデッキを分解したら、元に戻せなくなってしまって。「なんてことしてくれたんだ」と、泣かれてしまった記憶があります。文字どおり、親泣かせな子どもでしたね。

なぜ分解するのが好きだったのかというと、今まで見たことのないモノの中身を見ることができる喜びと、組み立て直すことで、自分でモノをつくり出したような気になれるのが幸せだったのだと思います。

小学生のころは、図工の時間が好きでした。毎回の授業で出される課題も楽しんでやっていたんですが、だんだんそれに飽き足らなくなり、やがて、課題は授業時間の1/3くらいで終えてしまい、「もっとこうしたらおもしろい」と思うものをつけ足したり、改良を加えたりして遊んでいました。たとえば、小学校の高学年のとき、糸鋸の使いかたを学ぶという授業があったんですが、それが発展して魚型のパズルをつくってしまいました。そんなふうに手を動かしながらモノをつくり出していくのがすごく楽しくて、やり始めたら止まらない感じでしたね。使う素材は、何かを買い与えられたのではなく、全部身のまわりのもの。牛乳パックや卵のパック、お魚のトレイやストロー、割りばし、ゴムといった身近にある素材を見つけてきては、何かをつくっていました。

分解では親を泣かせてしまいましたが、モノづくりに関してはいっさいそれを咎められることはありませんでした。そんな自由な環境で好きなことに打ち込めたのはよかったですね。
 
憧れの職業は大工さんと発明家

何かを自分の手でつくり出す。小さなころから憧れていた職業は、発明家と大工さんです。男の子ってみんな大工さんに憧れるじゃないですか。自分の手で自分の城を築くというか。あと、父親が建築関係の仕事をしていたことも影響しているかもしれません。建築模型も普通に家に置いてありましたしね。家の建設現場とかを見て、大工さんがどういう道具を使って、家がどう組み立てられていくのかを見る。そして家に帰って、その道具を調べる。するとどこのホームセンターで買えるかがわかる。そんな感じで、観察と調べるのを繰り返していました。レゴブロック遊びが好きだったのも、構造体をつくり上げるのが好きだったからなのだと思います。

発明家のなかでいちばん憧れていたのは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の“ドク”ことエメット・ブラウン博士です。だって、好奇心の赴くままに、タイムマシンだって自分の手でつくってしまう。どうやったらドクみたいな発明家になれるんだろうとずっと夢を見ていました。

でも、高校1〜2年生のころでしょうか。発明家という職業がないことに気づいたんです。遅いですよね。ドクみたいな発明家は、映画のなかの存在で、職業として発明家がいるんじゃないんだと。だったら僕はどうしたらいいのか、はたと考え込んでしまって、結局、高校時代には進路を決めることができず、受験することができませんでした。浪人決定です。

浪人時代の猶予期間はとても有意義なものでした。自分は何が好きだったのか、自分と向き合いながら考える時間を得たからです。そこで小さなころ、テレビ番組の「鳥人間コンテスト」や「ロボットコンテスト」が好きだったのを思い出し、機械工学科を目指すことにしたのです。

大学では、工学部の機械工学科で航空宇宙の研究をしていました。大学で得たものは大きかった。何かモノをつくるときに、どうすれば壊れないか、振動に強くなるか、水に強い素材は何かなど、モノづくりの根本の部分がわかってくるのがすごくおもしろかった。根本がわかるので、さまざまなものを自分が必要とする形でつくれるようになったのです。

学生時代は、鳥人間のサークルにもロボット関係のサークルにも入らず、発明家になるための道を自分なりに模索していました。そのひとつがアイデアコンテストです。いくつかの賞に応募して、ありがたいことに賞もいただきました。でも結局、新聞に載って終わり。それで発明家になれるわけでもないんですね。そんなことを繰り返していたら、あっという間に4年の時は過ぎていってしまいます。高校時代と同じように、また人生の選択が迫られるときがやってきてしまいました。結局、就職という選択肢を選ぶことができず、留年してしまいます。
 
風船カメラの再開発で小さな宇宙開発がスタート

そして、2回目の大学4年生をやっていたころ、あるニュース記事に出会いました。「アメリカの大学生3人が、自作のバルーンカメラで宇宙を撮影」こんな記事だったと思います。正直、その記事を見たときに驚いてしまいました。大学生3人? 自作? 宇宙? と。

当時の僕の考えだと、宇宙開発という言葉を聞くと、国家プロジェクトか、民間だったとしても大富豪が立ち上げたような莫大な資金力の元に成り立ったものしか思い浮かびませんでした。それを、大学生という自分と同じ立場の人がやっている、しかも風船という身近な素材を使って。すぐに「やってみたい!」と思いました。しかし、その記事には、大学生のコンタクト先はもちろん、どういう手法で風船カメラをつくったかなんてことは書いてありません。でも、記事の内容を見ると、やりかたはわからないけれども、できるということはわかった。なので、いちから自分の手で再開発するような気持ちでやってみようと思ったのです。

風船のサイズをどの程度にすれば、何グラムのカメラをどれくらいの高さまで持ち上げることができるのか。また、上空では気流もあり、温度も不安定。最初はどうやっていいかもわからないので、推論を立てて、試作品をつくり実験をして数値を取って、計算をして、理論を立て直す、その試行錯誤の繰り返しです。「とにかくやってみる」そうして失敗を繰り返して、気づいていくのです。

何もわからないところから、実験と失敗を繰り返し、約1年、10回のテスト撮影を経て、11号機で初めて上空30kmまで到達し、撮影した画像も見ることができました。この宇宙を撮影したといえるでしょう。そして、16号機くらいから安定した写真を撮ることができるようになりました。現在では、100機を超える風船カメラを空に飛ばしていますが、飛ばすごとに毎回学ぶことがあり、それが改良につながっていきます。
 
触れて確かめることで直感力が養われる

僕は新しいものをつくり出すとき、必ず「手」で触れることにしています。手に触れたときの情報量は、計算では出せない膨大な知識と経験のうえに成り立っているからです。よくエンジニアというと機械相手の仕事と思われるかもしれませんが、まったく逆。自然相手の仕事なのです。つくっているものは機械ですが、それを動かす場所は自然のなか。不安定な天候で、気温も変わる、そんな自然界の過酷な状況でも動くものをつくらねばならない。そうしたときに頼りにしなければならないのは、エンジニアの直感です。つくって壊して失敗して、を繰り返して得られる直感。コンピュータは計算はしてくれますが、最終的には「手」によって培われてきた「直感」を頼りに、この世にないモノをつくり出す。それが難しくもあり、おもしろくもあるのです。これからも、手を使った挑戦は続いていくと思います。
 
岩谷圭介
発明家、エンジニア、アーティスト。1986年生まれ。福島と東京で育つ。北海道大学在学中より、個人レベルの資金と身のまわりの素材を使って「風船宇宙撮影」をスタート。2012年、日本で初めて小型の風船カメラを使って、上空30kmからの撮影に成功した。著書に『宇宙を撮りたい、風船で。』がある。
fusenucyu.com

※このインタビューは mammoth No.32「HANDS」特集に掲載されています。

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