「感じる」体験が子どもの心を変えていく|#21 Future 佐治晴夫さん

パイプオルガンを弾きながら、やさしい言葉で私たちを「変える」きっかけを与えてくれる、理論物理学者の佐治晴夫先生。宇宙、科学、数学、宗教、哲学、自然、詩、幅広い知識を頭の引き出しに携え、私たちにわかる言葉で宇宙と人のつながりを教えてくれます。佐治先生が小学校でおこなった授業のお話を通して、「感じる」こととは何か、一緒に考えてみましょう。

「『わかる』ことは『かわる』こと」。これは、以前に養老孟司さんと一緒に書いた本のタイトルでもありますが、小学生に授業をすると、この言葉をひしと感じることがあります。最近の小学校では「子どもが話を聞かない」「授業に集中しない」と言われていますが、聞いていないようで彼らは授業をきちんと聞いている。普段は問題児と呼ばれる生徒、例えばアスペルガー症候群の子なども、私の授業では、ほとんど問題を起こしません。 

いまの教育の問題点は、「理解させる」ことにウエイトがかかりすぎていること。むしろ「感じさせる」ことの方が私は大事だと思っている。厳密に言えば「理解できれば感じられる」のですが、教科書や本を読んでわかったつもりになってしまう子どもが実に多い。小学校の授業現場では、1クラスにだいたい1人か2人は、非常に物知りの子がいます。「虹はなぜ7色なの?」と聞けば、「太陽の光のなかに7色の光があるから」とはっきり答える。しかし、「だからキレイなんだね」という答えまでにはいかない。

なぜ、「感じる」ことが大事なのかというと、私は理論物理の人間ですが、宇宙の研究をする際にも「感じる」ということが本当に大切な出発点だと感じるからです。東京大学にいた時、遅くまで実験をして夜中に研究室の外に出ると、街はひっそりとしている。その時、暗い宇宙空間のなかで、地球が音を立てて動いているように感じる瞬間がありました。ドイツの詩人・リルケがそういうことを詩『秋』のなかで書いていましたね。どこからともなく木の葉が1枚散っていく、この地球も重い宇宙空間の静寂のなかを落ちていく、どんどん落ちていったその先には、それを支えてくださる限りなくやさしい2つの手がある、というような意味の詩でした。2つの手とは神の手のことでしょう。私の授業でも、そういうことを感じられる子どもの感性が育ってくれればと、いつも思っています。

清里にある清泉寮で、合宿形式の夏の学校をやったことがあります。保護者と離れて、みんなひとりぼっちで見ず知らずの子と合宿する。朝は牛の世話からはじまり、さまざまな授業をやりますが、最後のプログラムでは田んぼに入りました。田んぼに入ると気持ち悪い、ぬるっとして生あたたかい、足もとを見ると虫がたくさんいる。するとそこに一陣の風が吹いてくる。遠くで稲光がする…全部が自然の体験なんですね。その晩、その体験を1行詩で発表してもらいます。「田んぼにはいった」「足がちくちくした」「虫がいっぱいだった」「遠くで稲光がした」という子どもの声が終わるか終わらないかのうちに、ピアニストが即座に、その感想を音に翻訳して即興演奏をする。最後には『田んぼの中の水族館』っていうタイトルの組曲が完成します。

夜になると、望遠鏡で星を見せます。物知りな子は「あれはこと座のベガ。距離は25光年」とか言いますね。そんなとき、私は彼にたずねます。「でも、どうしてその星が見えてるのかな」と。そこでの私の狙いは、テレビや写真で星を見るのと何が違うのかということを理解し、感じてもらうことです。「あの星までの距離が25光年とうことは、いま見ている光は、25年前にベガを旅立ったということだよね。つまりね、その星からやってきた光そのものが、25年の旅をして、いま君の目のところに着いたということだよ」。そういった会話から、自分たちが知っている、知識としての25光年とは意味が違うことに気づいてもらうように仕向けるのです。

4泊5日の合宿ですが、いかに算数の問題が解けるようになるかではなく、感じるということの体得が重要な課題です。そういうことを体験した後の子どもたちの変わり方は顕著ですね。

こんな授業もありました。「幸せになりたい人、手をあげてごらん」と言います。するとほとんどの子たちが手をあげる。「なるほど、みんなは幸せになりたいんだね、じゃあ幸せって何なのか知ってるということだよね」。すると、みんな「ん?」という顔になる。それでは、ということで、児童のところに箱を持っていき、「みんなの幸せをここに入れてみて」と言うと、大変なさわぎになります(笑)。でもね、大変だと思うことによって彼らは考えるんです。そういう時に、知的障がい児の子がすばらしい答えをくれたことがありました。その子は「お昼になったら幸せを入れられる」っていうんですね。その子の幸せとは、「給食」だったのです。知的障がい児の彼は、「給食」を食べられることが幸せだということがきちんとわかっていたということですね。こういうことがきっかけになって、ほかの児童たちが彼に向ける視線がガラリと変わることも新しい発見でした。知的障がい児の子と私の会話に、他の40人の子どもをいかに巻き込むかが、この授業では非常に重要な役割を果たしました。

 
重要なのは子どもとの信頼関係

教育現場では、指導要項や教科書が大事なことはもちろんですが、いま教師が考えたこと、感じていることをストレートに相手に投げかけることも重要。しかし、それには語りかける教師と聞く児童との間に信頼関係がなければなりません。そこで、その信頼関係を築くのに、とてもいいチャンスが「給食」の時間です。給食は空腹を満たすための時間であるだけではなくて、大切なコミュニケーションの時間でもあるのです。と同時に、算数の授業にだってなるんですよ。

「1粒のもみがらを植えたら何粒のお米がなるのかな?」というところからはじめます。1粒のもみがらから穂が出て、そこに米粒がなりますが、平均すると、その数はおよそ500粒です。その一方で、お米1gのなかにはおよそ50粒のお米が含まれています。小学校4年生の給食の1人分のご飯は約70g、つまり、3,500粒です。となると…「じゃあ君たちがいまから食べる給食のご飯粒をつくるには、何粒のもみがらが必要でしょう?」
するとみんないっせいに「7粒」と答えます。そんな授業をした日の給食はほとんど例外なくおひつは、空っぽになりますね。人類にとって一緒に食事をするということは、ほかの哺乳類には見られない最大のコミュニケーション手段。ですから、給食を生物学的な身体に対しての栄養を補給する時間ということだけではなしに、みんなと食物を摂取することを通して育む心の栄養、その両方がとれる大切な営みだと考えるべきでしょうね。もちろん、ご家庭での食事もそういう風に考えてもらえるといいですね。

これまでいくつか私の授業をご紹介しましたが、教育とは、単に子どもたちに知識を与える所作というだけではなく、生きている人間の不思議さを感じさせることから、いかに生きるべきかという指針の基礎を与えることです。

よく「親はどうすればよいでしょう?」と訊かれます。ご自身の子どもの頃を振り返っていただけばおわかりかと思いますが、親が「勉強しなさい」と言ってもまず無理でしょう。それよりも「感じる」体験の現場をたくさん用意して与えることが大切。それには、親の方も子どもたちのナマの言葉に耳を傾けながら、一緒になって、ものの不思議に関心をもつことでしょう。子どもが何気なく発する言葉や考え方には、大人にはおよびもつかない発想がたくさんあります。まず、親がそれに気づくだけの心のゆとりをもってほしいですね。本を読むことも重要ですが、家庭や学校だけではない、第3の場所で違った価値観をもつ他人や大自然とふれあう機会をつくることも大切です。

また、親御さんたちには、「親のプロ」になってほしいと思います。親の経験をそのまま子どもに押しつけるのではなく、親と子が協力して新しい世界観をつくっていってほしい。「親のプロ」とは、悩みながらも、子育てを通して自分自身の成長も同時に目指すことができる人。たがいに向き合うのではなく、それぞれの個性は違っても、ともに幸せな方向を目指したいと、切磋琢磨していただきたいですね。親御さんにとっての先生は、案外子どもさん自身かもしれません。

 
佐治晴夫(さじはるお)
1935年、東京生まれ。理学博士。鈴鹿短期大学学長。元NASA客員研究員。基礎数学、理論物理学を学び、東京大学物性研究所、玉川大学、県立宮城大学教授などを経て、現職。量子論に基づく宇宙創生理論、「ゆらぎ」研究の第一人者。ピアノ、パイプオルガンを自ら弾いて、宇宙論の講演を各地でおこなっている。

※このインタビューはmammoth No.21に掲載されています。

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