坂口恭平さんインタビュー|プロフェッショナルじゃダメ。素人上等。家だって電気だって、自分たちでつくれる

「セキスイハウスみたいな家をアリジゴクの方法でつくる」小さなころから考えていた“家”のイメージは、ダンボールハウスで結実する。建築家で作家の坂口恭平さんは、現在ふたりの子どもがいる4人家族で熊本のアパートに暮らしています。坂口さんが小さなころ住んだ家と家に対する思考の変遷、そして坂口さんが考える未来の家について聞きました。

家について興味を持ち始めたのは、小学校低学年くらい。0歳から9歳までは、福岡県糟屋郡の新宮町というところの電電公社(現・NTT)の団地に暮らしていました。この新宮町というところは、戦後、1950年ごろに米軍から払い下げられて団地や家が建ち並ぶ、いわゆる新興住宅地。広大な敷地に30棟くらいが建ち並ぶ団地のエリアと、向こうにはまるで映画の『グーニーズ』の主人公が住んでいるみたいなアメリカナイズされたセキスイハウス、また少し先には昔ながらの漁師の集落、そしてフェンスの向こう側には松林と砂浜があった。

団地に住んでいた僕は、もちろんすべてが新しくてカッコいいセキスイハウスに憧れていた。と同時に、松林で遊ぶのが大好きで、とりわけアリジゴクに夢中になった。家でありつつ罠である逆ピラミッド型の住まいを見て興奮した。
「セキスイハウスみたいな家をアリジゴクみたいな方法で建てられないか」
そんなことを考えるようになって、僕は自分の部屋の机の下に潜り始めたんです。それを僕は「テント」と呼んでいました。

机の下に布団を敷く。机から少し離れたところに椅子を置き、写生用の画板を机と椅子の背もたれのところに載せ、それが屋根となる。上から毛布をかければテントのでき上がりだ。椅子はテーブル代わりにして、その上で家族から離れてご飯を食べるのが僕のなかのちょっとしたイベントになった。

ちょっとした反抗だったんだけど、テントは自分の家のなかで金も使わずにアリジゴクみたいな家がつくり出せるひとつの方法だと思った。両親は「お金がないから一戸建ては建てられない」と言っていたけど、僕はなんで金がないと家が建てられないんだって思っていた。団地は好きじゃなかったんだけど、そのなかにテントをつくることで、自由な自分だけの空間を確保していたのだと思う。

団地に対する違和感はずっとあった。砂利道と砂浜は同じ砂のように見えてあきらかに違うし、団地の庭に咲いている花はたしかに自然だけどどこか自然じゃない。借りもの、つくられたものばっかりに囲まれて暮らしているような感覚があって、なんだか居心地が悪かった。これじゃあアリジゴクはつくれないって思った。だけど、家のなかでアリジゴク的テントをつくることで、なんか心が落ち着いたんです。

家の外にも居場所をたくさんつくりました。秘密基地ですね。でも僕のやりかたは、ほとんどつけ足さない。たとえば松林があったら、曲がった枝を2階に見立てて、2階建ての家として遊んだり、酒屋さんの空き箱ケースを並べ替えて基地にしたり。なにかをつくるというよりは、すでにあるものを見て想像し、そのなかに家の機能を発見して楽しんでいた。見かたを変えるという視点は、当時から持っていたのだと思います。

テント生活は、持病の喘息によって親から禁止令が出て、あっけなく終わりを告げてしまったのだけれど、そのときに身体で感じた感覚が、後の段ボールハウスにつながっていくのです。当時は、たんに居心地がいいって思っていただけなんだけど、つねに感じていた違和感の隙間にすっと入ってきた。そのときのなんとも言えない感じをどう言語化するか。それが今の仕事になっているのだと思う。

普通に考えたとき、天井高が1m50cmの部屋って言われたら、すごく嫌でしょう。でも、自分でつくったものだと天井が高かろうが低かろうが、そんなことはいっさい気にならない。逆に1m5 0 cmってすごく高く感じる。さらに大きく2mの箱を段ボールでつくったら、とてつもなく大きく感じるでしょ。小さい段ボールのなかに入ると気持ちいいことや、布団を折り畳んだなかに入りこむと、その空間はとんでもなく広いものに感じること、屋根があるとなんとなく家っぽく感じること、逆に屋根がないとなぜか心細くなること。子どものころ、誰もが考えていることや、当然だと思っていた感覚や当時感じていた疑問が、大人になっても消えなかった。もちろんずーっとそのことを考えていたわけではないけれど、小4のときに建築家になるって思ってから考えることを止めなかった。

そんな思いを持ちながら、大学に入るため東京に出てきた。早稲田大学を選んだのは、建築家の石山修武教授がいたから。アリジゴクみたいな建築をつくれる大学ってどこだろうと思って、建築雑誌を端から端まで全部読んだ。そのときに気になる建築家が3人いた。吉阪隆正と石山修武、ル・コルビュジエ。それとは別に、中学校くらいからフランク・ロイド・ライトの建築は肌感覚として好きだった。

東京に出てきて初めて住んだのは、H型で2棟ある寮だった。6畳一間の小さな部屋で2年くらい暮らしたけど快適だった。セキスイハウスのひとり部屋に憧れて自分の空間をつくりたい一方で、九龍城みたいな寮のごちゃごちゃした空間は不思議と落ち着くことができた。躁鬱だっていうこともあるから、僕にはひとりの時間が絶対に必要。だけど、他人と一緒に住むことに関してはまったく抵抗はないし、家が小さくても全然大丈夫。むしろ小さいほうがいい。

建築学科の学生になってからも、アリジゴクみたいな建築をつくる機会はまったくない。だから、僕は僕のやりかたで住まいについて追究していくしか方法がなかった。「住んできた家について説明する」という課題に対しても、間取りや設計図ではなく、レポート用紙にとにかく細かいスケッチを描いて提出したり、「都市の再生」という課題のときには渋谷区の廃虚となった公団の貯水タンクに住み、その様子を撮影した映像とレポートを提出したり。しかし、その課題が意外にも高評価を得たことで、僕はそのままの道を突き進むことになる。

そして、よく遊んでいた多摩川で、その地に20年以上も住んでいるオジさんと出会い、その後「0円ハウス」と呼ぶことになる川沿いに住む人びとの段ボールハウスのリサーチが始まった。多摩川を終えると次は隅田川へ。
「容易に分解することができ、また簡単に建て直すことができる」
これは僕が考えていた、これからの住宅の姿であった。土地からも、水道や電気、ガスなどの設備からも自由な、柔軟性のある家。それは住んでいる人が積極的に関われる家である。環境、災害などにも振りまわされない。そんな家ができたらどんなにいいだろうと想像しながらも、それを実際にやったとしたら、「原始時代の竪穴住居」みたいになってしまう。あまりにも現実感がない。どうしたもんかなと考えていたのであるが、多摩川の家を見ているうちに、これは可能性があるのかもしれないと俄然盛り上がってきたのだ。(『TOKYO0円ハウス 0円生活』より)

段ボールハウスに出合って、僕は究極の形を見た。だから、以後はそこにどうやって向かっていくかということを考えています。だって、それが夢だから。それで可動式のモバイルハウスをつくることになったんです。

僕にとっての未来の家は、0円ハウス。あの小さなころに机の下で味わったテントの感覚、多摩川沿いの段ボールハウスに入ったときの感覚が味わえる家です。でも、さすがに家族みんなで段ボールハウスに暮らそうとは思わない。だから、家族も納得したうえで住めるようなモバイルハウスを実現するのが未来の家です。

モバイルハウスでもなんでもそうなんだけど、身のまわりのもの、欲しいものはすべてつくればいいって思う。だから、僕はNINTENDO DSだって、妖怪ウォッチだってなんだってつくる。机だって簡単につくるし、子どもが机を欲しがったら自分のを拡張させてつくる。でも全部適当なの。それでできるっていうことだけを示すことが大事だと思う。プロフェッショナルじゃダメ。素人上等。家だって電気だって自分たちでつくれる。文句を言わずにみんなやればいいんだよ。

来年は熊本のど真ん中にモバイルハウスの自邸をつくろうと思っていて。30万円くらいで、土地も買わずに、車輪つきの家を。金をかけずリスクもかけない、100%の冒険、100%の実験ができる家。それが今の僕にとっての理想のハウスになると思う。

坂口恭平
建築家・作家。1978年、熊本県生まれ。2001年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。2004年、日本の路上生活者の住居を集めた『0円ハウス』を刊行。その他『隅田川のエジソン』『TOKYO一坪遺産』『坂口恭平のぼうけん』『幻年時代』『徘徊タクシー』などがある。 http://www.0yenhouse.com/house.html

mammoth No.30 HOUSE Issue 収録

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