Photo: Tomoki Hirokawa

大切なことは、みんな子どもに教わった|加古里子さんインタビュー

「表紙をめくってすぐの見返しがただの色紙だなんて、せっかく手にとってくださった子どもさんに申し訳ないじゃない」。絵本作家、加古里子さんは、子どもの遊びを観察し続け、常に子どもの気持ちになって作品を作り続けてきました。会社勤めのかたわら制作を始め、82歳となった現在まで出版した本は500冊以上。そのどれを読んでも、やさしく、明るい力に満ちた「子どもたちへのメッセージ」が込められているのです。
“加古里子”という名前を聞き覚えがない人でも、彼の作った絵本を見れば、幼少時代に読んだ記憶が、当時の思い出とともによみがえってくることでしょう。おとなになった今、改めて作品を読み返してみると、子どもが持っている可能性を信じ続けた加古さんの、温かく凛としたまなざしが感じられ、はっとさせられます。加古さんの本を受け入れ、楽しく読んだあの頃の自分から見て、今はどのような「おとな」になっているのだろう。そんなことを考えながら。
 
── 加古さんの作品を改めて読んで思うのが、お説教くさくないということ。『だるまちゃんとてんぐちゃん』では、だるまちゃんが「てんぐちゃんが持っているものが欲しい」とお父さんにおねだりします。通常の子どもは、たいていが「ないものねだりはしないの!」と、怒られておしまいですよね。でも、だるまちゃんのお父さんやお母さんは、一緒にどうすればいいかを考えてくれます。『はははのはなし』にしても、「歯は磨かなくてはいけません」ではなくて、「はははと笑っている子のなかで、ひとりだけ笑っていない子がいます。どうしてでしょう?」で始まり、最後は「ははは」と笑って終わっています。
「お説教なんかはね、私なんかもさんざんされたけれども、なにも効かなくてね。それでも子どもは子どもなりに、おとなのことを敏感に観察して、そこから自分なりに得ようと思っているんです。それがちぐはぐで、まだ経験も浅いですからね。手がうまく動かなかったりで失敗をする。だけども、彼らは彼らなりにがんばっている。そこんところを認めてやればいいのに、おとなはえてしてお説教だけすれば通じるだろうと思っている。まぁ、ほめるばかりじゃなく、おだてるばかりじゃないけれども、子どものやろうとしていた意図を見抜いてあげれば、彼らはうれしくて怒られても伸びていく。「いいことをやったけど、まずいことに、こういうところがおかしかったね」といってあげればいい。「ダメダメ! おまえできないくせに!」っていうばかりではなく」
 
── 子どもは熱心におとなを観察しているのに、おとなのほうが見抜けていないということなんですね。
「そこんとこがものすごくズレているんです。せっかくいいことをしようと思ってやったのに怒られる。そうすると、子どもは「もう、やーめたー」とこうなるんです。で、だんだん親と違うことをやってグレていくっていう…(笑)。だって親は、いちばん身近な手本でしょう。そこからなんかを得ようとしても、がっかりするような親もいるから、こういう親にだけはなるまい、と子どもは思う。そして、親を捨てる。でも、それでいいんですよ。子どものほうが長生きするんだから、親を超えなくてはいけない。子どもは自分の力で伸びようとしているのに、「教えたとおりにやりなさい」じゃ、せいぜいなれるのは、親並みでしょうから」(笑)
 
── 考え方ややり方というのは何通りもありますが、概して、子どもには「これはこれ」と一本調子で教えてしまいがちです。加古さんの絵本では『かわ』や『地球』などの科学ものにしても、いろいろな可能性があることを示唆していて、子どもにとって身近なことがらから、だんだんと大きな視点へと広がっていきます。
「それをくみ取ってくださるのは、子どもさんの力なんです。僕にいわせると、三歳以降は自我というものが出てきている。自我が出てきたということは、おとなには及ばないけども、生きるための諸般の力が全部備わっている。だから、絵本の文章には「風が吹いてきました。カーテンが揺れてます」とか、「窓の外を見ると、ヤツデの葉っぱがあります」とか、そんなこと書いたらダメなんです。子どもはまわりのものを、じろじろーって観察しているんだから、絵を見れば、これは緑色だから植物だってことがわかるわけですよ。だから、その力に頼るのです」
 
── 『だるまちゃんとてんぐちゃん』では、だるまちゃんが、てんぐちゃんのうちわを欲しがって、お父さんに家中を探してもらいますが、結局、伏線として片隅に描かれていた庭のヤツデを自分で見つけて満足しますね。
「それをね、子どもさんのほうが、あとになって「あれぇ、さっきどっかで見たなぁ」って、またページを戻して見てくれるんですよ。この頃は、僕の本を大勢の子どもさんに向かって読み聞かせをしてくださる親御さんや保母さんがいらっしゃいますけど、これを読み聞かせしていただくと困るの。子どもさんが「あ、どっかで見たような、さっきのあれじゃないかな」と思っても、もう過ぎちゃって、もとに戻してくれないから。この戻してくれる場があるっていうのが大切なんです。子どもさん自身が読めないなりにもいろいろ見て、親御さんが読んであげて「ちょっと待って」と言われたときに、すぐ待てるような関係がいい。大勢だと、それができない。絵本を読むのは、読み聞かせを目的にした本と、そうでない本があるんだから、それを選んでもらうのが望ましいですね」
 
── 加古さんは、絵本作家になる以前から、サラリーマンをしながら、ボランティアで子どもたちに紙芝居などを上演するとともに、子どもの遊びを観察されてきました。
「子どもは最高の観客でね。つまんなかったら、さっさといなくなっちゃう。そういう鼻垂らしがみんな教えてくれましたよ。理屈もなく、言葉もいらず。子どもたちは自分たちで遊び出したら、時間を忘れて遊び続ける。こっちは、いくらいろいろ紙芝居を描いても、「はい、今日はこれでおしまい」でしょ。彼らの遊びは無限なんですよ。それを見ていたほうが楽しかった。それで深入りしていったんだな。会社員だから出張命令があると喜んでどこでも行って、できるだけ早く終わらせて、残りの時間をほっつき歩く。その当時は、道路やなんかに絵を描いて子どもたちは外で遊んでいる。今、じっと子どもを観察してたら、人さらいじゃないかって、警察に引っ張られるかもわかんないけど、当時はなんの支障もなかったですね」
 
── それが石蹴りや絵描き遊び、鬼遊びなどの遊びのバリエーションをまとめた『伝承遊び考』という本になったんですね。
「まぁ、ばかですね、五十年ほどかかったんだけども、これを書かせるにいたったのは、子どもの力なんですね。小さいものをいたわって一緒になって遊ばなきゃ、遊びはつまんない、という。本当の遊びの世界では、ちっちゃい妹なんかがついてくる。入れてやらないわけにはいかないけれども、普通にやってたんじゃ、その子はすぐ鬼になっちゃうし、鬼になったら誰もつかまえられない。したがって、これだと遊びとして成立しないんで、成立させるためにハンディキャップをつけるんですよ。逃げるほうが強いとしたら、弱くなるように二人で手をつないで逃げるようにする。こういうハンディのつけ方で、たちまち何十種類となるわけで、鬼ごっこだけで二千種類くらいはある。いい加減といえばいい加減なんだけど、小さい子も大きい子も楽しめる非常に柔軟な考え方をする。これは共生の意識ですよ。共生なんて、おとなの世界でいわれ出したのは五〜六年だけど、子どもの世界では僕が生まれるずっと前から綿々としてやっている。だけども、こういう子どもの力をね、共生の精神だって指摘した教育学者はひとりもいないんですよ。彼らは「子どもの自由な発想のなかからは期待するようなものなんて出てこないから、きちっとした教育で備えるべき」というんですが、本来、伸びていく力というのは子ども自身が持っていて、外からどうにかしようなんてことはできない。外からやれることは、せいぜいそれを刺激するか励ますかそんなもん。先人が築いた知識とかの積み重ねを、いかに結構なもんだと彼ら(子どもたち)が気づいて、奪い取ってくれるように」
 
── 現在は、保育園や幼稚園から子どもの遊び声が聞こえるだけで、近隣の住民が文句をいうなんてことも聞きます。おとなのほうが、子どもと共生ができていませんね。
「僕にいわせるとね、わーわーきゃーきゃー騒がなきゃ、生き物としてのちゃんとした育ち方ができない。うれしい、おかしいという感情は、声となって発散することで、ほかの子にも伝わるし、共感、共生ができる。そういう場を失ってはダメなんです。人間としての欠陥になっちゃう。みんなで大騒ぎしてこそ、人間らしいユーモアとか、生き方を習得できる」
 
── 著書『加古里子 絵本への道』のなかで、子どもの遊びは自由に変化をしていくもの、彼らは状況に応じて遊びを変化させ、自分たちで楽しむ方法を知っているとおっしゃっていました。間違うこともあるけれど、間違うのが子ども時代のこと。遊びのなかで間違うのなら問題はない、とも。
「そうなんです。転んだり、けつまずいたり、そういう失敗をしなけりゃ、生物の側面として生きていけない。そうして育っていくはずなんです。失敗して「おまえダメだね」なんてあざけったら落ち込んじゃうけど、遊びの場だったら、失敗して鬼につかまえられたって、どうってことはない。また自分がつかまえればいいから楽しみに転化する。やっぱり自然の生きる力ですよ。楽しもう、生きようっていう力があるから、それが結果として知恵を磨き、体を作っていく。こんなにいい鍛錬の場はないですよ。こうしたしつらえられた場所があるのに、今の子どもたちは外遊びをしなくなっちゃってる。今、子どもの学力低下といわれているけど、それどころじゃなくて、悪くいえば、日本の株価も含めて、全部が低下するでしょうね」
── それを防ぐためには、どうすればいいんでしょう。
「そりゃあ、おとなの力ですよね。おとなが自分たちの持ってる力を出し切ってやらなければ、次の世代の子どもたちの力が伸びようもない。自発性、自主性が出てくるまでは、子どもの力を伸ばす場を作ってやるというか、残しておいてやる。夏休みに山登りに行って、冬にスキーへ行ったからだいじょうぶってわけにはいかない。そういう意味では、お手伝いという家庭内労働はとてもいいんですよ。ぞうきんがけとか庭掃除、靴磨きなんかをすることで、参画意識というかな、家族の一員だなって自覚が出てくる」
── 加古さんの作品『からすのパンやさん』でも、三兄弟がお手伝いをしていますね。
「つまんない説教になっちゃった」(笑)
── いえ(笑)、働いているお母さんやお父さんは、あれを読むと、子どもは両親が働いているのをちゃんと見て、わかってくれているんだという励みになると聞きました。
「僕の本で子どもさんが感づかれるってことはなくて、子どもさんはもとからご両親をちゃんと見ていますよ。世の中の人が休んでいるのに、なんでうちのおっかさんは休みの日にも出て行くのか。感謝の言葉こそ出ないけれど、ちゃんと子どもはわかっている。親御さんもそれを理解したうえで、子どもをちゃんと見てあげる。子どもさんのほうも親御さんを見ている。ここの関係がいちばん素敵なんだけれども、「こちらの苦労なんてなにもわからずに!」なんて一方的にやっちゃうズレというのが、今でも多いですね」
 
 
── 加古さんの絵本には、ご自身の強い思い、また、メッセージのようなものを感じるのですが、どういう思いを込めて絵本作りを行ってきたのでしょうか。
「子どもさん向けに書かせていただくというときに、私みたいなヨソ者といいますか、場違いなものがなぜやってきたかといいますと、僕のひとりの力でできる範囲はもちろんわかっているつもりですけど、その範囲で、できるだけというよりも、子どもさん全員に賢くなっていただきたい。健やかに育ってほしい。そのふたつの目的があったんですね。
 なぜかと申しますと、それは、わたしがそもそも間違いを犯してきた故です。子どもでも親の経済状態がわかるから、お金を使わなくって自分の人生を開こうと思ったら、学校に行ってるときから給料が出る軍人になるのがいいと心身を鍛えていたんです。けれど、あえなく近視が進んでね。試験さえ受けられなかった。一緒に勉強していた連中は特攻機でみな死に、僕も目さえ良ければ今日もこうしてお目にかかれなかったわけなんだけれども、幸か不幸か生き残った。まぁ、みなさん良かったわねというんだけれど、僕にとっては屈辱でね。望みが達成されなかったこと以前に、勉強していないとこういうざまになったわけです。
 結局、軍人になろうという考えが間違えだったということがあとでわかった。世の中の動きだとか、歴史とかを勉強してなくて、見抜く力がなかったのは、なにも先生が教えてくれなかったからとか、そういう世の中だったからっていうのも言い訳にならない。本来、私は昭和二十年に死んで当然だったし、もしかしたら、アジアの人たちにご迷惑をかけていたかもしれない。
 子どもといえども、自分のことは自分でやるべき。三歳以降は自我というものができているんだから、自分のことを勉強して、自分の道を自分の意志で決定するのは当然のこと。そのためには勉強しなさい、体を健やかに鍛えなさい。そして、余力があれば、恵まれない人たちと分かち合いないさい。と、ここまでくれば満点だけど、そこまでいかなくとも、せめて自分のことだけはきちっとしてほしい。そのために、僕は生き延びさせられたと思っているわけですよ」
 
── 作品は現在でも作られているのですか?
「緑内障が進んで、三年ほど前から出版社からのご依頼は全部辞退しているのですが、今でも若いときから集めていた資料がいっぱいありますから、まぁ、一日ふたつはとてもできませんけど、一週間たつと、ふたつやみっつできちゃうわけです。そりゃあ、生きていくためにはね。みなさんだって、一所懸命やられているでしょう。だからっていうわけじゃないですけど、それを立派な本として出版してくださるかどうか、それに値するかどうかはわかりませんけどストックしている。なんていうかな、もう余命幾ばくもないですから、死んだあと、これをご覧になったかたがね、お出ししてやろうといってくださったら、ありがたいきわみです」
 
加古里子
かこさとし 1926(大正15)年、福井県生まれ。東京大学工学部卒業後、民間の化学研究所勤務のかたわら、川崎のセツルメント(都市の貧困地区に設けられた施設)の活動に従事し、紙芝居や幻灯などの作品を作る。1959年『だむのおじさんたち』でデビューし、絵本作りや伝承遊び採集をおこなう。1973年の退社後は作家活動と教育文化のコンサルタント、東京大学教育学部などの講師をつとめた。 現在、総合研究所主宰。工学博士、技術士。
 
このインタビューは、『mammoth』 No.16(2008年)に収録されています。 取材・文:岡田真由美 写真:広川智基(A Super Rabbit)

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