睡眠と瞑想 |小池龍之介さんインタビュー|mammoth Interview

mammoth no.31「眠り」特集掲載のロングインタビューは、鎌倉の月読寺と山口の正現寺の住職を務める小池龍之介さん。波乱万丈の半生とは裏腹にというべきか、その反動というべきか、静淑な空気をまとい、言葉を選びながらていねいに話す、若き僧侶です。日に三度の瞑想を実践し、一般向けにも瞑想レッスンを開催している小池さんの、睡眠と瞑想のお話。それは「自我」と密接に関係がありました。
 
「自分」は存在しない

「無我」はある意味、サイエンティフィックな事実であると思います。どうしてもこれが食べたいと思うのも、他人に対して腹立たしく思うのも、あるいは眠れないとか、眠くなってきたとか、なんでもいいのですが、そういった感情や状態は、「私」がつくりだしたり決めたりしているわけではありません。私たちが思い込んでいる「自我」というものには、じつは決定権はないんです。

ちょっと難しい話になってしまいますが、因果法則によって一定の情報がインプットされる。それに対して、自分の過去に積んできた記憶──仏教では「業」といいますけれども──に基づいた、あらかじめ心に備わっている好き嫌いのようなものが、自動的に反応してしまうのです。「私」がどうしたいかにかかわらず、とにかくそうなってしまう。

ですから、たとえば、眠りたい人が眠ろうと思い続けるのは無意味なこと。ゲームのコントローラーの「眠り」ボタンを連打すれば眠れると錯覚しているんですけども、あいにくそのコントローラーのコードはちぎれているわけです(笑)。眠りたいと思うほどに交感神経が刺激され、興奮状態に陥りますから、ますます眠りが遠ざかっていくというような塩梅で。

あまり考えず、心がおだやかになり、自我の暴走が収まっているとき、自ずから副交感神経が優位になれば、眠りに落ちる。そのとき、副交感神経を高めようとがんばるのもやはり無意味なんですね。いま起きていることはすべて、過去に自分がやってきたことの結果として現れていることであって、そうなるべくしてなっているからです。いま興奮しているか、落ち着いているかは、5分前に考えたことや行動によって決定されてきますし、その考えや行動というのは、さらにその5分前の考えや行動によって決定されている。イライラしたり、あくせくしたりして、慌ただしく日中を過ごしていたのに、寝るときになったら急にリラックスしようなんていうのは、虫がよすぎるんです(笑)。
 
自分で自分の邪魔をしない

結果は必ず過去のドライビングパワーによるものなのに、それを「いま」の「私」が変えられると思い込んでしまっている。我っていうものがそもそもあるんだと思い込んでいるだけに無意味な操作をいっぱい加えるから、よけいうまくいかなくなる。しかも、よかれと思ってやるのだから、なおさら厄介なのです。しかし、よく観察してコントローラーのコードが切れていると気づけば、ボタンを力づくで連打しても意味がないとわかり、わかれば手放せて、手放せば楽になるでしょう。それが無我を悟るっていうようなことなんですね。「仏教は夢や希望を諦めろと言ってるんですか」と難癖をつけてくる人がよくいます(笑)。ある意味ではたしかにそうなんですが、ちょっとしたパラドックスとしては、眠ろうとひたすら希望を追いかけているせいで眠れなくなりますが、諦めるとかえって眠れたりするもの。過剰に我を張って、自分に与えられた状況や環境、能力に見合わないものを無理に手に入れようとするせいで、物事がうまく行かず、空まわりしてしまう。そうではなく、自分の運命のなかで与えられているものを理解して、それに沿うようにすればいいのだと思います。

そのために、瞑想は有効な手段です。瞑想するか、もしくは人生で本当にどうにもならないくらい絶望的に挫折するか。中途半端でもなんとか人生をまわしていけていると根本の問題点に気づけませんが、徹底的に挫折するとチャンスが開かれる場合があります。ちなみに私は後者で道が開けたタイプですが(笑)。

仏教は確信犯的に、もっと道具的なものでいいと思っているんです。儀式や戒律に執着するのではなく、実践に重きを置くといいましょうか。知見や瞑想法を本式に装置として備えている点で仏教はすばらしいと私は思っていますが、だからといってその実践に必ずしも仏教という名がついていなくてもいいと思うのです。心をより平和にして、他人にもやさしくなれる人が増えることを望んでいます。それが仏教徒であるかどうかにこだわりはないのです。

そういう気持ちもあって、瞑想レッスンに通われている方にも、道具の取り扱いかたを学ぶ教室という感覚で来てくださいとお話ししています。実際、その方たちのことは生徒さんと呼んでいます。
 
睡眠と瞑想は似ているか

起床して、朝の仕事を始める前に2~3時間、昼に1時間、寝る前に1~2時間。毎日4~6時間の瞑想をしています。睡眠時間はだいたい7~8時間でしょうか。眠りの質と瞑想の質は、関係があるように思います。集中的に瞑想しているときは意識の覚醒が非常に高まってきて、寝たときも意識があるような感じで、夢を見ていてもそれを醒めた目で観察している。自分の心のなかに埋もれている雑多なデータを顕在化させるプロセスが自覚できているような状況といいますか。一概に瞑想が深まってると気持ちよく熟睡できるというわけでもないんですが、おおまかな傾向としては、瞑想が一定程度深まっているときのほうがよりスムーズに眠気がやってきて、それに導かれて布団に入ったら、すみやかに眠りに落ちて、朝まで起きないですね。

瞑想は、半分眠っているけれど、覚醒した意識も残しているような状態。瞑想にもいろいろな段階がありますが、ある段階で、非常に睡魔に襲われるんですよね。睡眠が足りていないから眠くなるとか、ぼーっとしてくるとか、そういう次元のことではなく、意識が消えて昏睡状態に陥ってしまうようなことがしばしばあるのです。瞑想を続けているとみんなが通る道で、生徒さんにもよく訊かれるので、私としては聞き飽きた質問なんですけれど(笑)。
 
仏教的瞑想法とは

心を緊張から解き放って何かに集中していくというプロセスを踏んでいくと、集中はしていながらすごくリラックスしていくんです。過剰にああしなきゃ、こうしなきゃ、というそれまでの思い込みが解き放たれることで極度にリラックスし、その結果、寝てしまうんじゃないかなと思います。その眠気に慣れないうちは本当に寝てしまったり意識が消えてしまったりしがちなんですが、そういうものだと放置しておいて、おだやかに取り組み続けていけばいいのです。「座禅しながら寝てしまうなんて!」などと否定的な感情をもつ必要はまったくありません。

自分の状態に執着しなくなってくると、そのうち、眠気がやってきても意識が覚醒し、眠気がやってきている自分を観察できるようになってきます。自分がただ眠いと思っていたのが、ふだんの自分の日常生活とはリンクしないような奇妙なイメージとか映像とか音とか、そういったものに心が取り込まれているんだなと観察できるようになります。いわば、覚醒した意識で自分の無意識の活動を観察するようになるわけです。夢を見ている自分を自覚している状態にも、似ていますね。

そういった、眠っているとき特有の意識の頑なな活動がちょっと停止していて、心の内部が見えやすくなっているような状態。心のガードがちょっととけているような状態。普通に寝ている状態は覚醒した意識が完全に落ちてしまって、ただリラックスだけがあるんですけど、そのリラクゼーションと同時に集中した覚醒状態を保っている、つまり、眠りと覚醒を両立させているというところが仏教的瞑想であるといえましょう。……というのは私の解釈に過ぎないので、適当に聞き流していただければいいのですけれどね(笑)。
 
小池龍之介
1978年、山口県生まれ。正現寺住職、月読寺住職。2003年、ウェブサイト「家出空間」を立ち上げ、お寺とカフェの機能を兼ね備えた「iede cafe」を展開。現在は自身の修行と一般向けに瞑想指導を続ける。『いま、死んでもいいように』(ベストセラーズ)『〝ありのまま〟の自分に気づく』(角川SSC新書)
『考えない練習』(小学館)など著書多数。iede.cc

Text: Mick Nomura (photopicnic)

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